エピソード
トリビア
1986年の凶気:『たけしの挑戦状』が突きつけた絶望と伝説の言説
1986年(昭和61年)12月10日、日本の家庭用ゲーム市場は一つの臨界点を迎えた。タイトーから発売されたファミリーコンピュータ用ソフト『たけしの挑戦状』は、お笑い界の至宝であり、後の映画巨匠・北野武でもあるビートたけしが、「ゲーム界への殴り込み」として放った一撃であった。累計出荷本数は約80万本。しかし、その数字以上にこのソフトが残した爪痕は深く、今なおビデオゲーム史上最大の怪作として、畏怖と嘲笑を込めて語り継がれている。この伝説の創世記は、居酒屋「北の屋」の狂宴から始まった。本作の誕生は、1980年代半ばのタレントゲームブームの波に乗ったタイトーの営業的判断によるものだったが、当初用意された『オレたちひょうきん族』ベースのアクション案を、監修のビートたけしは「つまらねえ」と一蹴した。「既存のゲームなんて子供だましだ。俺が作るなら、誰もクリアできないような、本当の『挑戦状』にしてやる」。打ち合わせの舞台となった新宿の居酒屋で、たけしは酒を酌み交わしながら、同行した放送作家や軍団の面々と共に、荒唐無稽なアイデアを機関銃のように連射した。主人公はサラリーマンで、会社を辞め、離婚し、南の島へ宝探しに行く。カラオケのためにマイクを使い、一時間もの間、画面をじっと見つめていなければいけない仕掛けを作る。宝の地図を出すためには一度殴り、それから叫ぶ。
当時のタイトーのディレクター・福津氏は、これらを単なる冗談として聞き流さず、たけしの毒をゲームの新しい文法として捉え、一切の妥協なくプログラムに落とし込んだ。居酒屋の座敷でメモされた酔客のたわごとが、そのままプロジェクトの設計図となったのである。開発中、たけしは「高橋名人がクリアできないゲームにしてくれ」とも語っており、当時のゲーム界のスターに対する対抗心も、その過剰な難易度の背景にあった。開発チームは、たけしの断片的な思いつきを統合するために「街」という舞台を作り上げ、そこに店や港を配置することで、なんとかゲームとしての体裁を保とうと腐心した。物語の整合性よりも、たけしが面白いと感じる「場所」と「出来事」の手触りが優先されたのである。
しかし、運命の発売日を前に**発売前夜の激震、現実という名の「バッドエンド」**が関係者を襲う。12月9日未明、ビートたけしが講談社フライデー編集部へ乗り込み、逮捕されるというフライデー襲撃事件が発生したのだ。プロモーションは致命的な打撃を受け、テレビCMは即座に放送禁止。本来なら発売延期が検討される事態だが、すでに商品は全国へ発送済みであり、10日の朝、事件のニュースがトップを飾る中でソフトは店頭に並んだ。広告の「常識があぶない。」という予言的な言葉は現実と共鳴し、本作を単なるゲームから時代のタブーへと昇華させた。子供たちは、逮捕されたタレントの顔が描かれたカセットを、畏怖の念と共に手に取ることになった。テレビの報道で主役の逮捕を知りながら、その主役が作ったゲームを遊ぶという、前代未聞の体験がそこにはあった。
そこから始まるのは、**実践的絶望、攻略という名の「修行」**である。電源を入れればおどろおどろしいBGMと共にたけしのドット絵が現れるが、物語の導入も目的の提示さえない。最初のハードルは「どうやって日常を捨てるか」にあり、正解は社長を殴り飛ばして会社を辞め、自宅で妻と離婚し、全財産を換金することだった。この倫理の崩壊が冒険の出発点となる。街のスナックでは、2コンのマイクでカラオケを三回連続成功させなければならない。判定は極めて不可解で、テレビの前で大声を出し続ける子供の姿は、親から見れば狂気の沙汰に映った。実際にはマイクの音声認識は単なる音量判定に過ぎなかったが、それを知らない子供たちは必死で音程を合わせようと叫び続けたのである。
そして伝説の地図。手に入れた白い紙を日光にさらすコマンドを選んだ後、プレイヤーは一時間、一切の操作をせず待つことを強いられる。ボタン一つ、一ミリの振動も許されない。ファミコンの熱暴走や親の掃除機といった「現実の事故」でフリーズすれば、それまでの努力は泡となる。これはゲームというより、一種の座禅であり、精神修行であった。この一時間の空白の間、プレイヤーは画面を見つめ続け、たけしという巨大な存在と一対一で向き合うことを強要されたのだ。
この苦行を経てようやく辿り着くのが、空の彼方、海の果て、ハンググライダーとひんたぼ島である。自機は重力に従って猛スピードで落下し、操作感は極めて重い。鳥や岩に触れれば即死する地獄を越え、ようやく着いた島では現地の言葉「ひんたぼ語」が飛び交う。翻訳機などなく、プレイヤーは総当たりで正解を探すしかない。この徹底した疎外感こそ、たけしが描きたかった異郷のリアリティだったのかもしれない。こうした解けない謎と「攻略本訴訟」の真実も、本作の伝説を彩る。あまりの難解さに、公式ガイドブックですら不完全で、「この通りにやってもクリアできない」という苦情が殺到した。タイトーの電話窓口が「担当は死にました」と答えたという都市伝説や、プロのライターですら複雑怪奇なフラグ立てを再現できなかった事実は、当時の現場の混乱を物語っている。
実際、攻略本に記載された手順通りに進めても、途中の「隠しフラグ」が立っていなければ最後で詰むという仕様は、当時のゲームの作法としてはあまりに理不尽であった。ある攻略本では、カラオケで特定の曲を歌う前に街の通行人を特定回数殴っておかなければならないという、論理的な推論では到底たどり着けない手順が正解とされていた。これはプレイヤーの忍耐を材料にした一種の社会実験でもあったのだ。
すべての理不尽を乗り越え、地下迷宮の最深部で宝を手にした者だけが拝めるのは、**伝説の断末魔、「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」**という一言である。数時間を、あるいは数ヶ月を費やしたプレイヤーに対する、たけしからの最大級の労いであり、同時に究極の皮肉。虚構にムキになる現代人への警鐘と解釈するには毒が強すぎたが、この拒絶こそが、本作をクソゲーの枠から引き上げ、一級の現代美術へと昇華させた。スタッフロールの最後に、宝の山を背景にポツンと置かれたその台詞は、達成感を求めていたプレイヤーを奈落の底に突き落としたが、同時に「ゲームとは何か」という問いを深く刻み込んだ。
そして21世紀への遺産、呪いは終わらない。時代は流れ、Wiiでの配信や、新ステージ「アメリカ」を追加したスマートフォン版が登場し、たけし氏もインタビューで「まだ売れてんの? 悪いねえ」と笑い飛ばした。2017年のスマホ版配信では、ひんたぼ語検定や新ステージといった「狂気の上書き」が行われ、かつての被害者たちがニヤリと笑いながら再び地獄へ飛び込む姿が見られた。公式グッズとして、あのメッセージをプリントしたTシャツが売られるなど、かつてのトラウマは今や共通の笑い話として消費されている。しかし、その根底にある「不親切さ」と「毒」の鮮度は、今なお失われていない。BGMの中毒性も再評価され、不気味ながらもどこか哀愁漂う旋律は、チップチューン音楽の傑作として扱われている。
結論、たけしの挑戦状とは何だったのか。それはテレビが最も熱く、ゲームが最も自由だった時代が生み出した、一度きりの奇跡である。天才の悪ノリを大真面目にプログラムしたタイトーの誠実さと、それに立ち向かった子供たちの情熱。その三つが激突して生まれた巨大なバグのような傑作は、滑稽で熱い時間の中に、ビデオゲームの原罪と救いを同時に示している。この作品を体験した者は、その後どんな理不尽なゲームに出会っても、「たけしに比べればマシだ」と笑える強さを手に入れた。宣伝の段階から常識の外へ連れ出すことを狙い、攻略本がなければ無理だと語られながらも、多くの人の記憶に「消えないシミ」のように残り続けている。八十年代の街の雑さと、テレビの勢い、そしてファミコンの無茶が混ざり合った一度きりの空気。それが、今もこのソフトを怪談のように語らせ、新たなプレイヤーを誘い続ける理由なのである。
NAO総評
理不尽とシュールの化身という短評は正しいが、その中身は当時のテレビの熱そのもの。居酒屋での思いつきを実装し、一時間放置やマイク入力を強いる。常識を捨てろという広告は脅しじゃなく仕様なんだ。発売前日の事件でCMが止まったのも含めて、このソフト自体が巨大なスキャンダルだった。高橋名人を倒すために難度を上げたという話も納得の劇薬。復刻されても、遊ぶ側に祈りと覚悟を要求する点だけは変わらない。「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」という最後の一言に、すべてが詰まってる。真面目に攻略しようとした人ほど、たけしの手のひらで転がされる絶望を味わう。一度きりの怪体験だぜ。
出典:NAONATSU総評
冗談抜きで人生を狂わせかねない一言、子どもの頃は笑ってたのに、今読むと少しだけ分かる気がするわ。目的を教えないまま街に放り出されて、家族も仕事も捨てて、一時間も画面をじっと眺めて、ハンググライダーで何度も海に沈んで……やっと辿り着いた先に待っているのが、あの冷たい嘲笑だなんて。でも、マイクに向かって一生懸命歌ったり、友達と「ひんたぼ語」を予想したりした時間は、たしかに熱かったの。CMがヒントになっていた話や、スマホ版でまた新しい理不尽が増える流れまで含めて、この一本はゲームというより、忘れられない「事件」そのもの。笑えないのに、なぜか愛おしく語り継いでしまうのが、一番の「たけしの呪い」なのかもしれないわね。
出典:NATSU
📘 説明書資料(たけしの挑戦状[TFC-TC5300])
説明書:Internet Archive 所蔵版(たけしの挑戦状[TFC-TC5300])
※Takeshi no Chousenjou [TFC-TC5300](Famicom)(JP)
区分:説明書/Manual/Instruction Booklet
※当時の説明書はInternetArchiveに保存された資料を参照 権利は各社に帰属します












発売日:1986/12/10|価格:5300円|メーカー:タイトー|ジャンル:アドベンチャー
NAO: 理不尽とシュールの化身。クリアは祈りと覚悟が必要。
NATSU: 冗談抜きで人生を狂わせかねない一本。笑えない伝説の出発点。